「ゆるく考えよう」は一級の整体本でした。

ブロガー ちきりんさんの初の著書「ゆるく考えよう」を読みました。
1年位前からちきりんさんのブログを愛読していた私には、興味を惹かれると同時にブログでも書かれている内容をもう一度書籍で読むのはどうなんだろう?ともちょっと躊躇しました。

そんな心配は読み始めてすぐ消えました。変わらずな明快さ。
そして心地良さを感じつつも、ところどころグキッと音がしました。
その音は、ちきりんさんの主張を読むことで自分でも全く気づいていかなった”歪み”を矯正される音です。

例えば。

1 ラクに生きる – 退屈な人生を楽しもう  のある一文。

「予定が入ってることがいいことだ」という考えは下品です。
時間に追いまくられることがあるべき姿ではありません。

「下品です」という表現に、ぎょっとしたのです。びっくりして何度もその文と前後を読み返しました。
品がないってどういう意味だろう、なぜここまで言い切るのだろうと。

よく「手帳に予定が入ってないと不安になる」という人がいます。仕事の後や休みの日も予定が入ってないと落ち着かない。
私自身は全くそんなことはなく、予定で埋まると逆に気が焦ってしまうタイプ。
でも、予定が入っているのが良い、と考えることそのものに対して特に疑問を持ったことはなかったのです。

さらにこの一文。

「朝から運動して一汗流し、午後から映画を見に行って、夕食は○○会で大いに飲み大いに笑って、夜はベストセラー本を読む」という日曜日が、
「昼頃に起きてラーメンを食ってボーっとしている間に暗くなり、夕方からテレビを見ながらビールを飲んでいたら、また眠くなって寝てしまった」という日曜日より、「充実した日曜日である」と感じる人は、みんな何かに洗脳されています。

ギクっ。あ、私もしかすると洗脳されてるかもしれない。
充実させることが悪いことなわけじゃない。
でも、充実させなければならない、と無意識に思い込んでないだろうか。

社会人になってからの始めの数年は本当に昼頃起きて家でダラダラして一日が終わってしまう、そんな休日ばかりでした。いつもすっきり感とは程遠くて自己嫌悪。
この数年サイクルを意識するようになって大分減ったけれど、今でも時々疲れが出て一日ゴロゴロしてしまう日には、どこか自分に言い訳して許しを乞うてたかもしれません。”充実してないから。”

そのことに、気づかされてハッとしました。
ここに自分の拘り、さらに言えば歪みがあったのかと。
グキッという音と共に心の歪みを意識した瞬間でした。

他にも惹かれた項目をいくつか挙げておきます。

・日本はアジアのイタリアに
・「所有」という時代遅れ
・「成長したい!」だけではダメ
・アドバイスの正しいもらい方
・おいしい人生
・旅の効用
・楽観的であること  – 「よかった確認」

どれもタイトルの期待を裏切らない痛快さと、ちきりんさんの強い実感が伝わってきます。

全体を通して読んで感じたことは、この本は整体のようだなあということ。
心の整体。読了後の数日間、心身共に気だるさのような、ふわふわした感覚を味わいました。
これ何かに似てるな、と思いあたったのが整体の好転反応。
歪みや詰まりをとることで、一時的にだるさや目眩が起こるけど、それは身体が本来の働きを取り戻し健康になるための過程。
ちきりんさんの「ゆるく考えよう」は気持ち良い摩りと、グイと要所でツボを刺激して、その人のあるべき姿に整えてくれる。
読む整体本でした。

私もしらず知らずに思い込みや枠組みに囚われていたことに気づかされ、
随分とラクになりました。
ちきりんさんに感謝。

学習能力の高くない私はまた気づかぬうちに何かに囚われてしまうかもしれないけど、その時はまたこの本を開いて歪みを取ろうと思います。

最後に、とても印象的だったことをひとつ。
この本の最終章にある「自由であること」を読んで、頭にあるイメージが浮かびました。
20歳くらいの女性が誰もいない、霧がかった草原の中でひとり裸足で立っている風景。
風が吹き付けて髪が揺れるけどまっすぐ前を見つめて立つ女性。
私にはそれが自由であることの素晴らしさとそれに裏打ちされた孤独を想起させるイメージで。
この風景、どこかで見たことがある。随分前に。

読書後数日後のちきりんさんのこの日記で、ようやく記憶がつながったのでした。
高野悦子さんの「二十歳の原点」を読んだ19歳のときに思い描いた風景だったのでした。
点と点が結びついて、時代の一つの流れを見た思いがして鳥肌が立ちました。
すべては繋がっていくのだな、と。